元良親王

小倉百人一首 020

わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもふ

元良親王

読み

わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもふ

現代意訳

(あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、あの難波にあるみおつくしという名前のように、この身を捨ててもお会いしたいと思っています。

※わびぬれば / 「わぶ」は「思い悩む」の意。
※今はた同じ / 「はた」は「もはや」の意。
※難波なる / 次の「みをつくし」を導くもので、難波の入り江に「みをつくし」という杭が立っていたことによる
※みをつくし / 「身をつくし(捨てて)」という意味と、「みをつくし」という名前の、海の道しるべの「澪標」のふたつの意味をかけている

季節

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出典

「後撰和歌集」

解説
元良親王(もとよししんのう・寛平2年~天慶6年 / 890~943年)は陽成天皇の第一皇子で、和歌の才能にすぐれ、情熱的な和歌を詠む歌人として知られています。
陽成天皇が退位した後の皇子だったため即位はしていませんが、「後撰和歌集」に多くの和歌が伝えられている他、「今昔物語集」や「徒然草」などにも元良親王の逸話が残されています。
天慶六年に五十四歳で歿、兵部郷であったので三品兵部郷とも呼ばれました。

元良親王は宇多上皇の后・京極御息所と愛し合っていましたが、ふたりの間は宇多上皇の知るところとなり引き裂かれてしまいます。

この和歌は、元良親王が「もう一度お会いしたい」と思って、自らの恋心を詠んだ和歌だと言われていますが、後半部では、その激しい決意が表されています。

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